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福沢諭吉

適塾時代のエピソードには「熊の解剖」、「豚の頭を貰ってきて、解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食った話」などが自伝で語られており、他にも大坂の町人と江戸の町人の対比(大阪の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出て来ない。夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出て行く。申し合せをして市中で大喧嘩の真似をする。お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうて寂りとなる。)や「鯛の味噌漬と欺して河豚を食わせる」、「禁酒から煙草」、など自伝には福澤の人物像を表すエピソードが多数記されている。

幼少の時から酒を好みよく飲んでいたが、この適塾時代にはかなり飲んだとされ、「書生の生活酒の悪弊」「血に交わりて赤くならず」「書生を懲らしめる」(自伝)には、恐ろしく飲んで緒方夫妻を驚かせる、囲碁の話、茶屋の話などが記されている。塾長になり、金弐朱の収入を受けてからもほとんどを酒の代に使い、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て塾中で独り飲むということであった。

万延元年(1860年)、アメリカから帰国した福澤は日本への上陸第一歩の海辺で出迎えに来た木村摂津守の家来に、「何か日本に変わったことは無いか」と尋ねた。その家来は顔色を変えて、「イヤあったともあったとも大変なことがあった」という。福澤はそれをおしとどめて「言うてくれるな、私が当てて見せよう、大変といえば何でもこれは水戸の浪人が掃部様(大老・井伊直弼)の邸に暴れこんだというようなことではないか」(自伝)と、3月3日の桜田門外の変を正確に言い当て、家来を驚かせたことがある。もっとも、徳川斉昭の反目や安政の大獄による弾圧などで、このような事態は幕府の有識者の間では前もって分かっていたことだった。

経済、文明開化、動物園、また演説という表記など、和製漢語を数多く作った。自由も、著書『西洋事情』によって世間に広まった
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